愚衆叩き

知的エリート(笑)

 愚衆叩きという形で、自らが少数派であることの理由付けと、他人を罵倒することから得られる快楽、そして知的エリート(笑)であることの自己証明まで可能とした。


 言うなれば、彼らは愚衆とやらを敵と想定することによって己の存在意義を確立しているのであり、愚衆がなければ彼ら知的エリート(笑)も存在し得ないのである。
 はたして、当の愚衆の側が、彼ら知的エリート(笑)を必要としているかどうかは定かではないがw、もし万が一愚衆の側が彼ら知的エリート(笑)の台頭を望んでいるのだとすれば、それは共依存の関係にあるということだ。
 彼ら知的エリート(笑)たちは、自らが知的エリート(笑)であることを日々証明し続けるため、自ら愚衆の側に擦り寄り、そしてその愚衆に向かって愚衆と罵倒するのである。

 思えば、「新左翼」の時代からこうした傾向の萌芽はあったのだ。
 彼らが進んで大学と言う場所を闘争の拠点としたこと。これは決して無関係ではない。
 大学とは、その国の叡智が集結した尊い場所である、という信仰。あるいは、アカデミズムという知の体系に魅了されていたのである。
 その一方で、彼ら「新左翼」は、一般大衆を心の奥底で愚衆と罵倒しつつ、表面上は市民への連帯の呼びかけを続けた。

 彼らは、愚衆を愚衆と呼ばわることの出来ないかつての「新左翼」が抱え込んでいた自己矛盾を解き放った。
 彼らは、どこまでも愚衆に寄生することで、その知的エリート(笑)たる地位を維持しようと汲々としているのである。
 これは逆転の発想であり、画期的な発明とも言える。
 そして、画期的であり、偉大すぎるがゆえに、なおのこと愚衆からは理解不能である。それによって、ますます彼ら知的エリート(笑)の地位は安泰となるのだ。