コミュニケーションとか何とか
コミュニケーションって何だろう?
コミュニケーションは難しい
コミュニケーションって、じつは難しい。
はてな村界隈にいると、idコールが飛び交っていたり、ときには意見の異なる相手を軽々しく罵倒するやからも多い。
こういう、ある意味猥雑なコトバが乱れ飛ぶ状況を見て、「これが新しいコミュニケーションスタイル」なんて、妄想するのは簡単だ。
私が考えるに、世の中で、いやそうすると話が大きくなりすぎてしまうから、ひとまずはてな村界隈に限定しておこう。
自分語り
はてな村界隈で行われているコミュニケーションの9割は、自分語りなのだ。
えー、なんでidコールとか、或いは罵倒が自分語りになってるのかって?
多くの場合、他人に対して何かの名前を付ける(「〜厨」みたいな)や、あるいはもっとストレートに罵倒してみたりするのは、その対象となる相手を、自らにとって都合のいい存在に丸め込むという意思表示なのだ。
たとえば、はてな村界隈では、橋下大阪府知事叩きの流れにちょっとでも掉させば、もうたちまちファシストとか愚民とかにされてしまう。
idコールについては、その仕組み自体を考えれば、その本質が自分語りに他ならないことを理解するのはより容易だ。
idコールとは、コールされた側の相手に対して、「おいお前、これを読め」と強要しているのだ。
そう考えてみれば、まあ傲慢な態度といえなくもないのがわかるだろうか。
「叩きたい」という動機が先立つ
なぜそうなるかというと、「橋下を叩きたい」という動機があるから、それに合わせて自らと意見の異なる相手を自分に都合のいいように定義しなければならないからだ。
自分なりの定義を相手に押し付けているだけだから、そこに「対話」が成立する余地は全くない。
相手のコトバ尻を捕まえて、軽くage足を取ったつもりになれれば、自分は目的を達成してしまう。コミュニケーションのふりをしながら、自ら進んで自己完結を企図してる。
それじゃぁコミュニケーションにはならないよね。
「叩きたい」という動機が先立つ。だから、「叩いてみる」という目的さえ達成してしまえば、それ以降「繋がっている」ことの意味は喪失する。
人は自分の見たいものしか見ない
いわゆるはてなサヨクたちの行動を追いかけていると、あるとき、ブコメを見ていて「どうしてその問題が、戦後処理と関係しているの??」という、摩訶不思議な感覚に陥ることがある。
どうして、こどもの人権の問題の根っこに、先の大戦の戦争責任が関与してくるんだろう?まったく理解不能である。
そうした感覚そのものは、私にとってはまったく理解の及ぶところではない。しかし、どうして彼らがそういう「斜め上」のコメントをつけるかという理由はわかっている。
彼らは、この世にあるすべての「悪しきもの」の原因が、戦争責任であると考えたいのだ。あるいは、戦争責任が連なる、日本という国の伝統に連なる何者かが、諸悪の根源であるというストーリーを希望している。
こうした傾向は、はてサヨに限った話ではない。
たとえば右よりな、いわゆる嫌韓厨にも、同様の錯覚が蔓延していることは指摘しておこう。
指摘には、具体例を一つ示せば十分だ。彼ら嫌韓厨は、世界的なサムソン電子の実力を相当侮っている。
コミュニケーションはいかにあるべきか
それは難しい。
だから、自分語りに陥らないための工夫を積み重ね、リスクを軽減していくほかに私は方法を知らない。
リスクを軽減する方法、自分語りに陥らないための工夫としては、以下のことを心がけたい。
- 自分の意見や立場を理解する。自分と同じことを主張するからと言って、彼は自分と同じ立場であるとは限らない。
- 相手の意見や立場を理解する。自分と異なる主張をするからといって、彼はいつもの自分の「敵」の一派とは限らない。
- 意見や立場の違いを優劣と結び付けない。この禁忌を犯すと、他人を平然と愚民呼ばわりするだけの痛い子へとまっしぐらだ。
- 自らと立場を異にする相手との相互理解については、一定程度の「諦め」が必要だ。思うに、相手を軽々しく罵倒してしまうことの背景には、相互理解、というより「共感」への渇望があるのかもしれない。罵倒したい気持ちをぐっとこらえるために、今は「共感」を諦めてしまおう。
こうした、コミュニケーションをする上での工夫の数々は、もはや議論をする上でのノウハウ以前の話である。
もし、あなたが議論をすることを望むなら、議論をする以前に必要なことが漏れていないか、確認してみるといい。
勿論、私が提示した内容にも、多くの不備があることだろう。その点も留意しておきたいところだ。