面白くしようにもどうしても面白くなってくれないもの

 [追記]勢いで書いてはみたものの、じつにつまらないエントリーだと言うことに気がついたので削除。つまらなくなったことの理由は、エントリーを書き始めたことのきっかけが負の感情だったから。
 このエントリーのタイトルともなっている「面白くしようにもどうしても面白くなってくれないもの」には、まさにこのエントリー自身も含まれている。

「お前が言うな」は便利な言葉

 「お前が言うな」、というタグは、じつに便利な言葉だと思う。


 ちょうど、郵便小包で送りつけられた小型爆弾を、居留守を使ってそのまま配達人に引き取ってもらうような感じになる。
 「お前が言うな」、とタグをつけたとき、そこには私自身は介在していない。「お前が言うな」のその対象となっている誰かと、その誰かと何らかの関係性を持っている別の誰かがそこにいるだけだ。
 小包には送り主と、配達人が介在する。しかし受取人であるはずの私は居留守を使っている。
 そう考えると、にちゃんとか、匿名掲示板での定番のフレーズになっていることもうなづける。
 匿名性を担保され、誰かと誰かの関係性(ほとんどの場合、その内容は対立状態である)から隔離された状態でのみ発される言葉なのだ。
 こと、ネット上では、自分が絶対的安全圏にいない限り、発されることはありえないのだ。
 現実の、っつーか、生もの相手に「お前が言うな」というのは、手袋を投げつけるに等しい。もはやハルマゲドン状態である。
 現実空間には限界があるし、関係性が国家間の問題にまで発展すればそれは領土紛争にもつながる。
 だがネットは無限だ。仮に無限ではなかったとしても、右翼左翼の領土紛争が起こるのは、つねに当事者同士が紛争を起こしたいと考えた場合だけだ。
 ここでは、DisるためにDisるその理由をわざわざ見つけなければならない理由は存在しないのだ。

差別という関係性

 差別というのは一種の関係性だ。社会的な上下関係に、なにか負の感情のようなものが結びついたようなものだ。
 だから、社会的な地位の格差を解消しただけでは差別は解決しないし、逆に負の感情のほうを抑圧しただけでは差別の弊害は消えることがない*1
 この二つは常にセットだ。個別に最適化をかけてはいけない。
 もし、そこに差別につながるような負の感情があるならば、社会的な関係性を構築するのはむしろ危険なことと考えなければならない*2
 負の感情と決別する、あるいは、決別はできなくてもどうにかしてその弊害を押さえ込むことはできないものか。
 そうした逡巡の末、私は一つの仮説に従ってみようと決意した。
 わかり合うことができないならば、せめて笑ってやればいいのではないか。
 もし、それすら不可能であるならば、あえて関わりを持つことは避けよう。そういう状況はいつでも「うるせー馬鹿一択」なのだと思うようにしよう。
 笑うと言う行為を抑圧するのはやめよう。だだスベりのエンタ芸人であっても、ばかばかしいと思えたきはばかばかしいと思ってできるだけ笑うことにしよう。
 それすら不可能なときは、どうみても笑う余地のないものについては、「うるせー馬鹿一択」の原則を貫くこととしよう。

っつーか

 うるせー馬鹿*3

*1:アファーマティブアクションが根本的に差別解消に役立たない理由はここにある。

*2:そうは言ってられない、不幸な出来事というのは常につきまとうのだが。だが、しかし。

*3:[追記]自ら話を打ち切ったことの証拠として、この一行だけはあえて残しておく