今日のクリップ

「やさしさの眼差し」というファシズム

「やさしさの眼差し」が暗転するとき

 「やさしさ眼差し」とでも呼ぶべきものの中に、抑圧と言うかほとんどファシズムに近いものを感じることがある(・ω・`)。
 不登校児童に対する「やさしさの眼差し」にも、それに似たものを感じる(・ω・`)。
 「学校なんて、無理して行かなくても良いんだよ」という、あれである。
 もちろん、うつとかいじめとか、そういう問題があるのならそれを解決せずしてムリヤリ学校に行かせるのは最悪の選択だ。フリースクールとかいう試みについても意義は認めているし、真剣に取り組む人たちには頭が下がる。
 だけど、そういう「やさしさの眼差し」が、クラスの皆勤賞という「目標」を掲げるクラスに向けて、ささくれ立ってとげとげしい反応を見せ始めることには、違和感を禁じえない(・ω・`)。

学習は属人性100%の行為なのだから、教える立場から考えてみれば無遅刻無欠席無早退を賞賛するのは当たり前。小学校や中学校ならば、学習の意味がわからないので「社会に出ると、少しぐらい体調が悪くても仕事を休めない。学校で休まないことを身につけさせたい」という理由で強制しても良いと思うけど、高校でこれはいまいちだと思う。

でも、「夏休みを過ぎると、『学校に来るのが当然』という一体感が生まれたという」とあるから、そもそも学校に行かないこと自体に抵抗感がない学校だったのかもしれない。そうならば、ショック療法的な意味で良いやり方なのかもしれない。

 学校とはそもそも行くべきものか、というところに話しが及んでしまうと、いろいろ脱線しがちな雑音が生じる*1
 というわけで、ここは「学校は行くべきかどうか」という「そもそも論」は一旦棚上げとし、まずは「休むことのできる権利」について、ほんの少しだけ考えてみたい。

「権利」を「倫理」「道徳」に昇華させようとする試み*2

 「皆勤賞」を叩く一連の流れには、ぼく個人強い違和感があって、上記エントリーに対するぼくのブコメにもそのあたりのニュアンスを含ませている(・ω・`)。

「権利」ってのは、「義務」が一方通行になって弊害が出た時の『切り札』なのではないか(自然権はここでは論の対象としない)。「皆勤が当たり前」だからこそ、そこで有給休暇というカウンターパートに意味が生じる。

 「休みを取ってはならない」という命令は、じっさいのところ不当なものと言わざるを得ない(・ω・`)。
 だからといって、休むということは絶対正義ではない*3。「休まないに越したことはない(=義務)が、もし休む必要があったとしたらそれを妨げるのはよくない(=権利)」といったところではないかな。
 ここでぼくが言いたいのは、「休むことができる」という「権利」は、「むしろ休むべき」という「倫理」「道徳」には絶対に昇華しえないよ、ということ*4尾崎豊の世界観に「哲学」はあるかもしれないけど、「倫理」や「道徳」を求める人は、少数派ではないかな(・ω・`)。

暗転した「やさしさの眼差し」からの脱却へ向けて

 クラスが皆勤賞を取ったことには、素直に称賛を送りたいんだな(・ω・`)。
 もちろん、皆勤賞を取るために、生徒に無理をさせるのは本末転倒だ。そんなことをやらかすバカ教師がいれば、叩いて構わない(・ω・`)。むしろ叩いてくれ(・ω・`)。
 皆勤賞を取るには、教師・生徒の努力だけではなく、多分に幸運が必要だ。運が絡んでいるからといって、努力がまったく不要とはならない。だから「運次第のことだから称賛に値しない」というのは、ぼくは的外れだと考える(・ω・`)。
 もう一つ気になるのは、皆勤賞を取るために教師が生徒に無理をさせたと決め付ける流れがあることだ(・ω・`)。「ソース出せ」ってことになる。
 あとは、パンデミックがどうたらとか、他の生徒に病気をうつすとかいう意見。これも考えてみればおかしなことだ(・ω・`)。『皆勤賞を取った』ということは事実だが、『パンデミックが起こるかもしれない』というのは仮定の話に過ぎない(・ω・`)。事実に仮定の話をぶつけるのは詭弁だ(・ω・`)。あえて言おう、あたまがわるい、と*5

掛け声先行?クールジャパン戦略

  • クールジャパンはどこまで真剣なのか - CNET Japan
  • 振り返ってみれば、それらの源泉は「中小・零細企業が多く創造の基盤が弱い(「日本ブランド戦略」から)」というお粗末さであり、それに対する施策が芸術品として捉えられている。中小・零細産業をそのままの業態を保ちながら鼓舞するのでは、勝ち目がなさそうに思える。
  • 今世紀に入っての日本政府の積極的な取り組みは、成果をあげているとは言い難い状況が続いている。前提となる市場の理解不足もさることながら、実際に海外に展開しようという事業そのものには難題が横たわったままで、解決が進んでいないからだ。
  • 国際展開を望まれている当事者=メディアやコンテンツ事業者にとっては、大きなコストをかけて国際展開するメリットはあまり見えない。日本だけでも十二分に儲かるのだ。それゆえに、まさに「ガラパゴス島」状態が続いてきた。
  • 機能性を前面に押し出した消費財の時代は過ぎ、付加価値性の高い製品が主役に躍り出ている現在。付加価値性をもコンテンツ──いやソフトパワーとして捉えるべきであろう。すなわち、「良いものは売れる」といった過去の製造業パラダイムとは発想を異にしたアプローチ、メディア利用に消費スタイルをもパッケージにしたコンテンツ産業の世界展開が必要なのだ。

 「ソフトパワーが高い」という評価がある一方、「産業としての基盤が脆弱」とも言われる業界*6
 余力も、資金も、モチベーションもない。内向きに作っていたはずのものが海外に流出して、思いの外高く評価されてるかも(?)、というのは、浮世絵の時代からあまり変わってないのかもしれないな。

*1:たとえば、「学校に行くことができる状況じたい恵まれている。世界には、学校に行きたくても行けない子どもたちがいる。学校に行きたいのに行かないのは、日本と言う恵まれた環境に甘えているだけだ」みたいな意見が出てくるかもしれない。日本の子どもだって、「行きたくても行けない」事情を抱えている可能性があるのに、それをオミットするのは暴論だろう(・ω・`)。

*2:こういう捻じ曲がった試みは、僕が嫌悪するあるグループがちょくちょく手がけているね(・ω・`)。

*3:「休むことは悪いことではない」≠「むしろ積極的に休むべき」。

*4:この問題にやたら熱くなってる人たちが特に嫌がりそうな単語を敢えて選んでいる。

*5:じっさいパンデミックが発生した場合の対応は「緊急時」である。皆勤賞を目指すふだんのクラス運営は「平常時」であり、運用のルールが切り替わるのは当たり前。こんな区別もわからないのは、日頃から臨戦態勢で他IDにいちゃもんをつけてる特定IDだけだと信じたいが(・ω・`)。

*6:すでにゲーム業界では地盤沈下が行き着くところまで進んでいるとも言う。