とぐろを巻く怨嗟のウロボロス

DisるためにDisるということ

 ブクマしただけで無知をなじられたり、ブクマするだけでケンカをふっかけられたりすることがある。
 どうしてそのようなことが起こりえるのかはいまだ不明。しかし、それがどういうことなのかについては分かっている。
 つまり、これがこれまでなんどか言及してきた「DisるためにDisる」という態度なんだな。

温度差

 これまで、対人的な距離感ということについてエントリーを立てたことがあるが、これは「温度差」と言うべきだったかもしれない。
 「温度差」というのは、自分と相手の関心の強さ、感情の高ぶりなどに著しい差*1があるということだ。

たとえば

 いつも、通勤・通学途中の電車で居合わせるイケメンか美少女に、今日は思い切って告白するぞ、というシチュエーションを思い浮かべて欲しい。
 こちらの気持ちはもはや最高潮Maxにまで高まっている。ひとおもいに気持ちをぶちまければ、結果がどうであれとりあえずは「スッキリ」することだろう。
 しかし、だ。

思いをぶつけられる側の論理

 思いをぶつけられる側にとって、この「思い切った告白」とは一体何だろうか。
 見ず知らずの*2相手から、こってり、ねっちょりとした濃厚な感情を浴びせかけられ、それに対してその場で返答を求められるシチュエーションである。
 思いをぶつけてきたその相手が、イケメンか美少女であれば、そりゃ第一印象がいい分相手に対する好感度も高くはなろう。しかし、関心0のところから、いきなりこってり、ねっちょりのレベルまで感情を引っ張り上げることを強要されている。
 これは、考えてみればじつに横暴なことではなかろうか。

通りすがりにケンカをふっかけてみたりDisってみたりすること

 これらは愛の告白とは真逆をいくベクトルではあるが、やはりこってり、ねっちょりとした感情をなすりつけるような行為と言うべきだろう。
 今日の晩飯の算段を思い浮かべつつ帰り道を歩いていると、いきなり「ケンカ売ってるつもりなら買うぞコラ」と言われたらどうだろうか。
 これはひどい温度差があると言わざるを得ない。

ではなぜ、DisるためにDisるということが起こりえるのか

 それはDisっている側の者が、相手側との温度差を意識することなく、相手に対して自分と同じ温度にまで上げてくるように強要しているからに他ならない。
 ではなぜ彼は、彼我の温度差に無頓着でいられるのか。
 それは、彼が自分自身の温度にしか関心がないからである。そこに「対話」が生じる余地はない。

*1:その差が小さなものであれば、そのうちお互いになじんでくるものだが、あまりにも差が大きいとなかなかなじむという段階には至らない。

*2:と言うか、当の相手の方は、いつも同じ電車に乗り合わせていると言う自覚すらないかもしれない。