対人距離感と「文化圏」
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元記事は賢くてかわいい文化系女子が好きなんです - 日経ビジネス Associe(アソシエ)。
最初に言っておく。
「自分の周りの高学歴女子はディズニー好きだぞ」みたいなコメントあるけど、それって「反証」にはなるかもしれないけど「反論」にはなってないんだよ。
もし、この和田氏の見解を否定したいなら、「ある程度の学歴」と「ディズニー好き」の相関性を否定する必要がある。
文化圏について
ふつう、こう他人をわかったふうに分類するとき、カテゴライズという。
カテゴライズというのは、相当強力な縛りがあって、○○さんは××だ!みたいな感じになる。
いっぽう、ぼくのいう文化圏というのは、もう少しゆるい感じだ。
たとえば、「旅行が好き」という仕切りならどうだろう。
旅行と言ってもいろいろある。温泉好きとか、東南アジア、ヨーロッパでないと絶対ダメとか。あとは友達と行くか、一人でないとムリとか。
でも、世の中にはそもそも旅行なんて面倒、旅行に行くことの意味が理解できない、という人もいる。
人には、違いはあるけれどお互いに歩み寄れる部分と、歩み寄れない部分ってあると思う。
ぼくは、そういうゆる〜いカテゴライズを、「文化圏」という言い回しで表現できないもんかな、と考えてみたわけだ。
ディズニーについて
ディズニーに対する個人的な意思表明は避けるが、世の中には「ディズニーに積極的に行きたい」という動機のある人と、ない人がいる。
「むしろディスニーには行きたくない」というグループをあえて除外しているのは、そのグループの大半は「ディズニーなんて」と見下すことが個性的であり、スタイリッシュwだと考えているだけだったりすることが多いからだ。彼らのアイデンティティはその意味でディズニーなしではあり得ないことになる。
つまり、この世にはディズニーを必要とする人間と、必要としない人間が存在する。繰り返しになるが、ディズニーのアンチはディズニーを必要とする人間だ。
中上健次とAYUについて
せっかくだから軽く触れておく。
現時点での、ぼくの中上作品、AYU作品の理解レベルに応じた意見に過ぎないので、今後ぼくの理解が深まることにより、意見が変化する可能性がある点はご理解願いたい。
申し訳ないけど、それは承諾できない。
- 中上作品とAYUの歌詞では、「死」の取り扱い方が違うと思うし、AYUの歌詞世界には「時間」が存在する(時々『永遠』なんて表現されるかな?)が、中上作品では時間に相当する概念は無限ループしている。
- 中上作品とAYUが同じ文化圏と断言できるのは、双方の作品に触れた人間だけ。
大体が、中上健次とAYUを同列に論じること自体、ひとつの文化圏に相当するとぼくは感じてるけどね。
最後に
ディズニーが嫌いなヤツは人としてどうなの?みたいな意見もあるけど、単純に好みじゃないってだけでこうもこっぴどく人格を否定されたりするのかね?(・ω・`)